1940年代終盤から1960年代半ばにかけて、この文学運動の思想や行動様式に影響を受けたライフスタイルを実践する者をBEATNIKと呼んだそうだ。
音楽はそれをやる前に文学が根底にあって、そこから音楽文化が発達する。
保守的なのか革命的・反体制なのかははっきりしないけど、こと音楽については1940年代、1950年代、そして1960年代が発展しつつその年代が基盤としてあった。
そこをどう思うかで自分が今何をやろうとしてるのか、何をやってるのかが見えてきそうだった気がする。
1990年代以降は自分で曲を書き、自分の思いを乗せているようで時代に動かされていることに気づいていない感が強い。
今現在はなおさらで、顕著だなと感じてる。
かと言って自分には当時そこまで時代を読む力もセンスもなかった。
ただ、自分のペースが時代に乱されることが嫌で、もがいていたような気がする。
そんなもがきの中、高校2年の1月を迎えた。
TVに飽き、深夜ラジオを流しつつ、受験勉強などをしてた折、「HERO(HEROになる時、それは今)」のCMを見た。
斬新だった。
セイコークウォーツのCMだったけれど、翌朝街に出てみたらこれ一色だった。
甲斐バンドを知らないわけではなかった。
だけど、はっきり意識したのはこの時は初めてだった。
厳しい進学校だった。
越境入学を苦難の末乗り越えての入学だったから、受験を乗り越えてのひと時はホッとした感が満載だったかもしれない。
それを許してはくれず、有無を言わさず大学受験に向けての道に放り込まれた感じが強かった。
こんな自分も時代の中の極一部であり、歩もうとしてる自分に疑問を持つゆとりはなかった。
ただ自分のペースをつかむのに時間がかかった思いがあって、そんな折、「HERO」に出会って刺激を受けたのは、曲を通してバンドがこの曲を生むまでの変遷と苦難、そしてそれだからこその運を感じたのかもしれない。
甲斐バンドをしっかり把握に近い状態まで引き上げるには、この後バンドが解散した1986年まで待たなければならなかった。
少なくとも高校時代、田舎の進学校ではそれが許されることもなく、自分が今やってることの消化もままならなかった。
この後、高校卒業まで甲斐バンドに触れたのは数回しかない。
だけど、どれも印象的でよく覚えてる。
そういう意味では自分も1960年代のかけらだったのかもしれない。
歳のせいか、この頃のことをよく思い出すようになった。
音楽はそれをやる前に文学が根底にあって、そこから音楽文化が発達する。
保守的なのか革命的・反体制なのかははっきりしないけど、こと音楽については1940年代、1950年代、そして1960年代が発展しつつその年代が基盤としてあった。
そこをどう思うかで自分が今何をやろうとしてるのか、何をやってるのかが見えてきそうだった気がする。
1990年代以降は自分で曲を書き、自分の思いを乗せているようで時代に動かされていることに気づいていない感が強い。
今現在はなおさらで、顕著だなと感じてる。
かと言って自分には当時そこまで時代を読む力もセンスもなかった。
ただ、自分のペースが時代に乱されることが嫌で、もがいていたような気がする。
そんなもがきの中、高校2年の1月を迎えた。
TVに飽き、深夜ラジオを流しつつ、受験勉強などをしてた折、「HERO(HEROになる時、それは今)」のCMを見た。
斬新だった。
セイコークウォーツのCMだったけれど、翌朝街に出てみたらこれ一色だった。
甲斐バンドを知らないわけではなかった。
だけど、はっきり意識したのはこの時は初めてだった。
厳しい進学校だった。
越境入学を苦難の末乗り越えての入学だったから、受験を乗り越えてのひと時はホッとした感が満載だったかもしれない。
それを許してはくれず、有無を言わさず大学受験に向けての道に放り込まれた感じが強かった。
こんな自分も時代の中の極一部であり、歩もうとしてる自分に疑問を持つゆとりはなかった。
ただ自分のペースをつかむのに時間がかかった思いがあって、そんな折、「HERO」に出会って刺激を受けたのは、曲を通してバンドがこの曲を生むまでの変遷と苦難、そしてそれだからこその運を感じたのかもしれない。
甲斐バンドをしっかり把握に近い状態まで引き上げるには、この後バンドが解散した1986年まで待たなければならなかった。
少なくとも高校時代、田舎の進学校ではそれが許されることもなく、自分が今やってることの消化もままならなかった。
この後、高校卒業まで甲斐バンドに触れたのは数回しかない。
だけど、どれも印象的でよく覚えてる。
そういう意味では自分も1960年代のかけらだったのかもしれない。
歳のせいか、この頃のことをよく思い出すようになった。